日々思う日記

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自己満足です。見ないでください
【1月30日(土)】
 久々のブログ更新となりましたこと、お詫び申し上げます。
 まず持って、先週の1月23日(土)を持って、大学院の最終試験が滞りなく終了し、無事、修了となるか、落第となるかを待つだけとなりましたことを報告をさせていただきます。私の「法政」に対する執念で乗り切ったものであります!

 昨年の12月議会が14日に閉会致しましてから、申しわけなかったのでありますが忘年会もいくつかお断りをさせていただきながら、修士論文のラストスパートに取り掛かり、1月8日の提出まで、クリスマスも暮れも、正月も返上し、毎日、朝方まで事務所に籠りっきりで大学受験生のような生活をしながら、何とか提出に漕ぎ着けるよう仕上げることができ一安心。ここで23日(土)の最終口述試験まで2週間あるので、少々休むか・・・と安心したのが運の尽きで、まだまだ、最終チェック、脚注、引用注の確認、最終プレゼン資料の作成、発表用要旨など、作成する資料は盛りだくさんあるのに、残り1週間。
 今まで、8月、11月に2度の中間報告があり、その場で教授陣の質問攻勢による「集中砲火」を浴びた反省を最終試験の場で生かさなければならないのに、3度目の集中砲火(発表は、教授陣を論破しなければならないが、2度とも厳しい状況であった)を避けるべく、完璧な政策武装が必要不可欠であったのである。そのために、ラスト1週間は年末年始よりもひどい状況であったことは言うまでもありません。
 そして、当日の23日(土)。プレゼン時間は10分で、教授陣による質問時間は20分の合計30分。この20分間の質問を完璧に打ち返せばすべてが終わると念じて、重い瞼を「目がシャキ」「眠眠打破」を服し、万全の体制で(はなかったが)目を見開いて臨んだ最終試験。10分間のプレゼンまでは良かったが、質問が20分たっても終わらない!30分経過、35分経過。「あれ!長いな」と思った時、ある教授から「もうそろそろ終わりましょうか」という神の声が発せられた瞬間に間髪入れずに「ありがとうございました。」と片づけをしようとした瞬間、別の教授から「君の定義がわからん。ローカル・マニフェストの君の定義を述べよ!」と言われ、「ピンチ!」
 それは、マニフェストに関しては、西尾勝氏にしても、大森彌氏にしても、定義はなされておらず、日本型マニフェストの生みの親である竹下譲先生にしても、北川先生にしても、「ローカル・マニフェストは学術的にいかがなものか?基本的に二元代表制であるが故に難しい」と初めに否定的に述べているものであり、定義づけはされていないように思っておりますし、読み取れていない。(していたらすいません)
 なぜなら、北川先生の言葉にしても「マニフェスト革命」「マニフェスト進化論」2冊の本の中で、ローカル(首長)・マニフェストの意義については、上記の否定的な言葉の後に「選挙改革は政治改革に通ずる」ことを述べられておりますが、ローカル議員マニフェストに関しては、「地方政府の確立と緊張感ある民主主義づくりであり、2000年の分権改革一括法以来、意識と制度を変えるための気づきの運動である」と述べられていたので、定義ではないと感じており、このことも当然、私も答えとして述べましたが、やはり、「そんなのは定義ではないし、人の言っていることだ。私は君の定義を述べよ!と言っているんだ!」・・・沈黙、凍りつきましたが、思いのままに述べるしかないと思い、
 「私はローカル(議員)・マニフェストは、ただの気づきの運動ではないと考える。なぜなら、行政政策に関することは予算執行権のないことから紳士協定でしかないかもしれない。しかしながら「開かれた議会の確立」「議会基本条例を制定する」「議員定数削減」「定年制度の確立」など議会改革を訴えた場合はマニフェストとなり得るものであり、市民との約束はなし得るのである。だから、二元代表制のチェック機能を強化すればするほど、行政は磨きがかかり活性化する。その結果、市民が潤うこととなるのだ。つまり、ローカル議員・マニフェストは、市民に対して直接的・間接的にも議会改革を通して市民を潤すツールとなる。」で、タイムアウト。
 わかったような、わからないような議論が終了し、すべてが終わりました。
 その後、見事、疲労により体調を崩し近所の「近藤クリニック」へ。29日(金)までダウン。本当に死んだように5日間(熱、咳、喉、鼻、節々すべて)寝込みまして30日に復活。
 ご協力いただきました浜松の鈴木康友市長、流山市議会の松野市議、厳しいお言葉をいただいた竹下譲先生、議会基本条例を送っていただいた金沢市役所のNさんをはじめとする全国の市役所の皆様、三重県議会のOさん、そして、法政大大学院教授の白鳥浩教授、廣瀬教授、中筋教授、本当にありがとうございました。
 中学、高校、大学受験のときよりも一番、勉学に時間を費やした2年ではなかったか?本当に充実した2年間でありました。
 思い起こせば、中3の時に千葉日大一中の担任と喧嘩をして、「甲子園に行けない日大一高なんてくそくらえだ!俺は最低でも法政二高には受かるんだ!立教でも何でもでも六大学の付属に入ってやる!」と啖呵を切った高校受験から人生が急転落。合否の発表日に川崎の武蔵小杉駅で何時間も呆然と立ち尽くしたのを昨日のように覚えている。あれから、法政コンプレックスになったことは言うまでもない。
 あっ!まだ落第の可能性が・・3年目があるかもしれない
 
 
 
2010年1月31日


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